2011年5月7日土曜日

慈愛と自愛から日本語についてのあれこれ

よく、風邪をひいたときや体調を崩したときに「お大事に」という言葉を日本では見かけるような気がする。「お大事に」という言葉は英語でいうところの「Take care」という表現とニュアンスが似ているなぁと思う。

私の場合、「お大事に」という言葉より「ご自愛ください」という言葉のほうが好きだ。今日、偶然その言葉を使ったときにふと別の漢字が思い浮かんだ。「ご慈愛」という漢字をつかう言葉だ。私は漢字の使い方を間違ってしまったのではないかと、ふと心配になり、国語の辞書を引いた。

"慈愛:親が子供をいつくしみ、かわいがるような、深い愛情
自愛:自分を大切にすること。自分の健康状態に気をつけること(他)"
デジタル大辞泉より

この場合、体調を崩したのならば自愛、を使うべきなのだろうけれども、慈愛をつかってもいいように思える。日本語の良いところは、こういった漢字をつかうことで相手に伝えたいニュアンスを微妙に調節できるところだと私は思う。日本の国語教育はだいたい4,5才のころからひらがなを覚え、小学一年生では漢字にとりかかる。私たちはそれから何十年という時間をかけて新しい漢字を覚えていく。それが教育現場であったり、小説であったり、新聞であったりいろいろ場面はあるのだけれど。

多くの留学生があげる日本語の難しい点、それは漢字というふうに私はよく耳にする。私は先日本屋にいったときに、小学一年生の漢字のドリルをみて驚いた。留学生が苦戦している漢字の部分のあたりをすでに私たちは1年生でならっているのである。そして小学校、中学校、高校と国語の時間にきまって漢字を覚えるように、毎回ミニテストがあったり漢字を10回ずつかいてくる、というような宿題もでる。それはまさに、単語を覚えるときと同じ方法で書いたら書いた分体に定着する方法と同じではないか、といま学生時代を振り返るとよくわかるのである。私も英語と韓国語を今勉強していて一番伸び悩むのはやはり語彙の部分であって、特に英語のスペル・ハングルのスペルや意味を覚えるときには何度も何度も書くようにしている。まるで自分が小学生のときにでた漢字の宿題と同じように。

私は言語学を専門に大学で学んできてはいないので、体験をもとにしか文章にすることはできないけれど、今朝もアメリカのネイティブの友人に少し長いメールをはじめて送ったところ、使い方がとてもすばらしいといってくれた。それがお世辞であっても、素直にうれしいと思う。いままで重ねてきた小さな語学学習が成果をだしているとわかるのは勉強へのモチベーションにもなる。

慈愛と自愛。私がこの二つの言葉を知っているのは、いままで生活してきた中で活字にふれてきたというおかげだと思っている。日本人でも文字をよまないと語彙は増えないし、私もまだまだ語彙がすくないと痛感してしまうことも度々ある。英語も韓国語も同じで、英語をとにかく読む、とにかく書くといったことが語彙をふやしたり、新しい言語を取得するためのよい方法だと思う。実際私がやっていることは、難しい問題集をといているわけではなく、英語のblog記事をよんだり、Twitterの英語のツブヤキを読み取ったり、韓国語の和訳に挑戦したりと、普段なにげない時間に自分の好きな分野の記事を読んで、それに対して感想を書いたり、フォーラムに書き込んだり、相手につたわらないなら伝わるように、工夫して書くということだ。

よく、友人やネイティブの人からのアドバイスで、「はずかしがらずにもっとはっきり言えば/書けばもっとよくなる」というのを思い出す。これは私のつかっている英語学習サイトで自分のspeakingを添削してもらったときに共通してもらったアドバイスである。

日本は恥の文化、まちがえることは恥だとおもって私は人生の大半をいきてきたが、実際いまのところ恥をかいてなんぼ、と思い直している。間違えたら次は間違えないように気をつけるべき点であり、それは自分にとってプラスになることなのだ、と。日本語のすばらしいところをもうひとつあげるとするならば、日本語は日本中どこにいっても日本語が通じるということであり、この意味はぜひ皆様にも考えていただきたいです。