2011年4月14日木曜日

点訳にこだわることについて

 私がここ数日なぜか朝に起きて、ご飯を食べ、暖かい珈琲を飲み、村上春樹の「雑文集」を1エッセイづつ丁寧に読んでいる。一ヶ月のうちにこのように調子の良い日はほんの数日しかないけれども。(大半は、睡魔が抜けきらなくて寝ていることが多い)

村上春樹の新刊でもある「雑文集」は私がとてもよみたかったエッセイ集であり、いつも見逃してしまう彼の短い文章(雑誌などにかかれたものが多い)はなかなかこのように一冊にはならなかった。連載されていたものは、「村上朝日堂」のように一冊の本としてまとめられる。

タイトルの「点訳にこだわることについて」というのは、私が読書が好きだということ、翻訳をしはじめたということに大きな要因がある。それと、私自身、視力が極端に悪いということも関係している。
私は読書の合間にふと考える。「いまこうして読書ができるのは視力があるという幸福があるということで、同時に読書をすることで自分自身の世界観が広がるという楽しみやエキサイティングな体験をすることができるのだ」と。
もし私が、目が見えなかったら、世界というものをどのようにして知るのであろうか。

中学生のときにボランティア体験として点字というものを習った。そのときに、この世の中に点字というものが存在することをしった。点から文字をひろうことができるのである。点字のことはすっかり忘れていたけれど、翻訳家を目指している今、調べていくうちに「点訳」といった分野の翻訳があることを知った。私は昔から読書が好きであったし、本をよむことのすばらしさも知っている。
しかし、残念なことに、点字訳の本はまだまだ地方図書館では少ないのではないだろうか。(東京にはたくさんあるかもしれないが定かではない)もし、私が点訳者として活動できるのであれば、ぜひ取り組んでみたいと切に思った。なぜなら、点訳された本を通して、世界が広がるチャンスがいる人がたくさんいると思っているからだ。私は、インターネット上でいろいろ調べたが、点訳講座にも残念ながらお金がかかる。これは、とても悲しいことだ。

点訳は本来ならば、図書館などが行政と手をとりあって、点訳者を育てるためのプログラムや、未来の点訳者のために独学で勉強するために助成する制度があってもよいのではないかと思う。
そもそも、私の価値観が育てられたのも、学生時代熱心に読んだ小説やノンフィクション、様々なジャンルの文章を読んできたからだと思っている。私は、たとえばそれが、よしもとばななの「キッチン」で、衝撃をうけたように、村上春樹の「ノルウェイの森」で生と死を考えたように、本という紙の媒体の性質をつかって、健常者(そもそもこういう言葉を使うのも嫌なのであるが)が普通に本を読んでいるように、本の世界を伝えることができれば、という強い気持ちが生まれた。それは、英語や韓国語といった海外の言語を学び始め、自分の言葉で訳す楽しみがわかってから生まれたのだけれども。

点訳講座は実は大きな図書館で行っていることがあるが、時期がわるかったり定員がいっぱいであったり、募集の情報が手に入らなかったりといろいろな問題がある。私の場合は、住んでいるところが田舎であるということ、また自分も持病をもっていることで、なかなか通うことが難しいということで独学で点字を学びたいと切実に思っている。それがたとえ、お金を払わなければならないとしても、点訳者になれるのであれば、地元のボランティア団体とうまく付き合っていけるかもしれない。ボランティア団体を運営している人たちはいわば、ボランティアのプロである。

日本の政治家は福祉福祉と叫ぶ。しかしそこに具体的なものはない。政治家(それはたとえ、小さな村の議会であっても)は福祉という言葉を使うならもっと具体的なものが必要なのである。福祉を知らない政治家が安易に福祉という言葉を使ってはいけない。

話がそれてしまったが、私は英語と韓国語と日本語の翻訳者を目指すと同時に、点訳者という翻訳の一部にもつねにフォーカスをあてて、機会があればすぐにでも取り組みたいと思うのである。そのためには、役場に乗り込んで、福祉課のひとたちとじっくり話し合うことも必要なのではないのか、うまく役場を活用する方法はないのか、日々考えている。しかし、考えているだけでは何も始まらないので、とにかく行動にうつしたくて、うずうずしている毎日であり、本を読むたびにリマインドされるのである。

もし自分から視力が失われたら。あなたはそういう事態を考えたことはありますか?